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2017年02月の津南新聞「トピックス」

過去の津南新聞トピックス
県立十日町病院附属看護専門学校、3年後に開校決まる、看護教員養成を県予算化  2月25日号
 県立十日町病院に隣接する形で開校をめざす「県立十日町病院付属看護専門学校」を3年後の平成32年4月開校の実現に向け、新潟県は新年度予算に看護専門学校の指導者・看護教員の育成予算を計上した。県医師看護職員確保対策課によると、29年度から3年間で9人の看護教員を育成する方針だ。看護専門学校は県立十日町病院の北東側に隣接の十日町裁判所と検察庁の移転後の敷地を建設地として、十日町市が用地取得し、建設する方針。市では29年度予算に用地取得費を計上しており、県内3校目の県立看護専門学校が3年後の春開校へ、大きく歩みだした。

 県の新年度予算では「看護職員養成施設設置準備費」として2411万円計上している。県医師看護職員確保対策課によると、29年度から3年間、看護専門学校で学生を指導・教育する看護教員を毎年3人、首都圏の看護教員養成施設に送り込み、3年間で9人の指導者・看護教員を養成し、平成32年4月開校に間に合わせる計画だ。養成する看護教員の募集は、経験年数など一定の条件を設け、県立病院の看護職員などを対象に募集し、新年度から養成施設に送り込む方針だ。
 一方、看護専門学校は地元十日町市が建設用地を取得し、建物も市が建設し、県が賃貸借契約を結び、県立看護専門学校を開設する。このため十日町市は新年度予算で用地取得費を計上している。隣接の新潟地方裁判所十日町簡易裁判所と隣接の十日町地区検察庁の両敷地約3370平方b(国有地)を、両施設が移転後、一括購入する。移転先はすでに駅西地域の一画を確保しており、29年度内には移転する方針だ。
 
 十日町病院に隣接して建設する建物は4階建てを想定し、1階は市営の「休日救急診療所」や「医師会事務局」などを配置し、2階以上に県立看護専門学校が入る予定だ。
 全面改築が進む県立十日町病院は、米山知事が「県立県営を継続する」方針を示し、3年後の平成32年春の全面開業後も県立県営が維持されることが決まっており、同時期に県立十日町病院付属看護専門学校も開校することになる。計画では1学年40人定員、3ヵ年過程。開校前年には募集要項が発表される見込みだ。県では学生寮の計画はないが、「地元がどう考えるかでしょう」としている。

写真・正面左が十日町簡易裁判所、右が検察庁。両敷地約3700平方bを十日町市が確保し、4階建てを建て、看護学校が入る

募る村民不信、栄村・森川村政、振興公社問題・職員人事などで  2月25日号
 また否決。昨年5月、トップが代わった栄村で何が起こっているのか。今月9日、村臨時議会を開き、村内大久保集落の空き家を改修し、「村営住宅」にする改修費予算案が否決された。賛成3、反対7(1人欠席)という大差。先月12日には経営危機にある栄村振興公社への支援金を含む補正予算案が否決された。賛否の差は1人だった。続いた「提案議案」への否決は、昨春就任した森川浩市村長(57)の「村政手腕への不信」とも取れる。今回の2つの否決の周辺をリポートする。
 
 今回の臨時議会には7人余の村民が駆けつけた。先月の公社への支援案が出された臨時議会では傍聴席は20席では足らず、臨時に別室で音声をライブで流す傍聴室を設けるほどで、関心が高かった。
 栄村振興公社の運営資金援助を含む約5千万円の補正予算は、今後の経営改善計画の不透明さや、経営見通しで提出した参考資料の甘さなどから、疑義が相次ぎ、結局5対6で否決。2週間後に再度臨時議会を開き、3月の年度末まで経営できる最低限の支援金2100万円の補正予算を提案し、全会一致で可決した。

 一方、今月9日の臨時議会。2年前、大久保集落区長らが当時の島田茂樹村長に「空き家を活用して、定住促進に取り組みたい」と住民要望した。これを村は28年度予算化したが、5月に村長交代。村は活用策を探るなかで「村営住宅化するには耐震補強が必要」となり、総額3840万円を今月9日の臨時議会に提案。ところが今度は、「事業費が高すぎる」などの理由で、3対7で否決。大久保集落の思いは、いとも簡単に退けられた。

 村は、事後対応を取るため大久保集落に打診した。予算否決を伝えると、「地元から、それなら要らないと回答があった」(森川村長)と、改修は取りやめ、取り壊す方向を固めている。だが、地元は「村の方から否決されたので解体すると言われ、地元もそれでいいかと言われた」と言い分が異なっている。「地元要望」というが、実は村職員が電話で聞いただけで、2年前に住民要望した思いは、そこには反映されていない。

 否決のあった2回の臨時議会。2回とも傍聴者は多かった。この事態をどう見ているのか。男性は言葉少なに話した。「森川村長になってから、人事や村の事業、職員の異動、臨時職採用など、どう見てもおかしい部分が多く見える。議会のチェックが甘い」と話す。栄村振興公社の理事長人事、JR森宮野原駅業務の対応など、村民から見る「森川村政」は、「村民不在の村政」に見えるようだ。

 さらに別の傍聴者は、「議会の改選が4月にある。さらに昨年の村長選も後を引いているようだ。議会のあり方、行政の在り方が、どうも変だ。人口がどんどん減っているなか、皆が協力し合わないと、この村の将来はない」と厳しく話す。

写真・議場の傍聴席で審議を見守る村民 

東京津南郷会創設メンバー・小林甲さん、92歳なお現役  2月25日号
 92歳の元気な姿を、いつも見せてくれる。東京津南郷会の創設メンバーで、5日の新年総会にも、いつもの笑顔を見せた。
 大正13年12月8日生まれの小林さん。この日は太平洋大戦の開戦記念日でもある。小林さんも出征した。海軍だ。
終戦間際の昭和20年。大戦の中でも激烈な戦場となった硫黄島に向かう船に乗っていた。「正月過ぎだったから2月頃かな。駆逐艦2隻で輸送船を護衛していたんだが、硫黄島が見えてくると、グラマンが編隊を組んで襲ってきた。私が乗船していた船の船長の腕が良かったんだな。グラマンが襲ってくるだろう、そうすると船を急旋回してかわすんだ。駆逐艦は120bほどだったから小回りが利く。船長の腕が良かったから、命拾いしたようなものだな」。

 終戦は宮崎の陸の上にいた。船が襲撃でやられ、乗る船がなくなり、油之津(あぶらのつ、現・日南市)で砲台を3基作り、敵機を待ち構えていた。上部から「港湾の油之津に来るから、来たら迎え撃て」と言われたが、8月を迎え、終戦になった。生まれた芦ヶ崎には9月1日、祭りの日に帰った。
     ○
 荒川区にあった「小林紙業株式会社」。6人兄弟の4番目の甲さんは養子に入った。幼い頃の記憶がある。「昭和2年、4歳の時と思うが、東京で大博覧会があり、親父が私を養子にするということで東京に連れて行った。あちこちに行った記憶があるな」。その時に内諾していたのが小林紙業。同社には子がなかった。「オヤジは紙の統制会社の役員をやっていたんで、自分では直接仕事はしなかったんだが、おふくろの方が、私にねじをまいたんだな。この人は私が憎いんだなと思うくらい厳しく言われたな」。
 養子入りは22年2月10日。はっきり覚えている。寝食を忘れ家業に精を出し、町内会の役員など地域の要職にも就く。「50年ほどやったかな」、紙業を止め、今はリサイクル関連会社に事業所を貸している。
     ○
 戦後まもない昭和22年の東京は、まだ焼野原。小林紙業も焼け出されたが再興に向った甲さん。「高等科で習った農業を思い出したんだ。野菜づくりには畑に灰を入れることを。焼野原だから灰はいくらでもあった。畑に灰を入れてトマトの苗を探してきて植えたら、これがすごかった。近所の人たちが『お宅のトマトはすごいねぇ』と驚いていたね。近所に配って喜ばれたな」。
 家業を復興させ、地域活動にも取り組み、荒川区の役所関係業務も担い、荒川区交通安全協会副会長を50年ほど務め、警視総監表彰を受けている。

 「ふるさとから遠く離れ、東京など首都圏で暮らす人たちの集いの場を作ろう」と昭和32年、津南や中里の出身者らと『東京津南郷会』を立ち上げる。以来60年。同会は昨年60周年記念式を開いた。甲さんはその創設メンバー。毎年の新年総会、ふるさと訪問にも参加し、宴席の最後の定番、「からす踊り」では、真っ先に踊りの輪に立ち、参加者を引っ張る。「そうだな、元気なうちは出るよ。皆に会えるのが楽しみだし、元気の源だな」。92歳は、なお現役だ。

雪国今昔物語「雪のバー」    2月25日号
 先月、NHKで「ベルナティオ」の高さ約10bの巨大かまくらを紹介していた。毎日新聞の元十日町支局長・池田友好さん(82)から「面白い写真があるよ」と送られてきたのが、この写真。
昭和30年代の十日町雪まつりの時という。雪のトンネルをくぐると、なんとそこは「バー」。雪のカウンター、白のスーツに蝶ネクタイのバーテンダー。棚には様々なボトルが並び、カウンター上にはカクテルを作るシェイカーが見える。
 右の男2人連れの前には三角のカクテルグラスが置かれて、手前の男性は、それを呑んでいるようだ。右の女性ふたりもなにか飲んでいる。頭にストールを被る女性は「真知子巻き」か。TV番組『君の名は』が大ヒットした昭和37年か38年の頃か。当時流行った音楽が店内に流れているのだろう。今や外国からの観光客に大人気の『雪中カフェ』の先駆けだ。

 あの頃、十日町の人たちは雪を上手に楽しんでいたと取材活動を通じて池田さんは感じた。「雪のウィンドー」もその一つ。道路は2階の高さまで雪で埋まっている。屋根雪処理の雪壁が高さを増す。そこで考えたのが、通りに面した側をくり抜き、そこに洋服や帽子などをマネキンに着せて飾る。道行人たちの目に入るだけにPR効果はバツグン。その雪のウィンド―に『雪のファンタジー』と看板がある。なんともしゃれている。


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