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2015年08月の津南新聞「トピックス」

過去の津南新聞トピックス
西大滝ダム最大取水量変更、「協議必要」、信濃川中流域協議会  8月14日号
 河川環境を公的な立場で調査・検討・協議する「信濃川中流域水環境改善検討協議会」の第2ラウンドは『西大滝ダム下流域』の河川環境のあり方に取り組むことになった。10日、飯山市公民館で開いた第27回協議会は専門委員を一新、初顔合わせの協議会となり、委員長には長岡技科大・大塚悟教授が就いた。この委員変更後の事実上の初会合で、東京電力から「西大滝ダムの最大取水量の変更」が、報告の形で突然出された。事務局は「協議会の協議対象ではない」と報告を受けた形だが、JR問題で論議をくり返した十日町市・関口市長は「報告だけで済ませていいのか。しっかり議題にすべきではないのか」と協議の必要性を述べた。大塚会長は当初、「融雪期だけの取水増であり、問題ないのでは」と私見を述べていたが、今後協議対象にするかどうかを含め、再度協議することになった。だが、東京電力はすでに下流域5市町村への説明を済ませており、当日出席の古谷聡・信濃川電力所長は「国への申請準備に入る」と最大取水変更の申請を進める方針だ。

 東京電力の説明によると、春の融雪増水期、「毎秒13dの追加取水」を計画。これまでの最大取水量は毎秒171・133d。これを融雪期に限り、毎秒13d追加、総量約184d取水する計画。すでに東電は西大滝ダム下流5市町村(飯山市、野沢温泉村、栄村、津南町、十日町市)に説明澄みだ。
 委員を一新した中流域協議会での東京電力の「時期限定の最大取水量の変更」報告は、唐突感で受けとめられた。下流の津南町・上村憲司町長は「どう河川環境に影響するのか、20dの維持流量をどう評価するのか。取水の増量の影響などは分からないが、後顧の憂いを持つようなことのないようにしたい」と慎重な姿勢を見せている。

 これまでの中流域協議会ではダム下流への放流量、放流方法など協議したが、「ダム取水量」について協議した経過はない。今後、東電が国申請し、国は地元県(長野県・新潟県)に意見照会し、県は地元市町村に意見を求める。この時点で地元意見が表明できる。さらに「西大滝ダム下流水環境検討会」が調査・検証する立場にあるため、取水量アップも協議対象にすることができるが、検討会の裁量部分となる見込みだ。

 今後の西大滝ダム下流域の河川環境のあり方論議は、主に「西大滝ダム下流水環境調査検討会」が重要になり、規約では「ダム下流域における水環境調査計画の立案および結果評価」、さらに「ダム下流域の水環境と水利用の調和の方策」を上げおり、調査は東京電力が行い、その評価を同調査検討会が行う。ダム下流域の河川環境のあり方が、ようやく本格的に調査、検討されることになる。

 これと並行し、長野県は西大滝ダム下流域の「サケ遡上調査」を今秋から実施し、同検討会に報告する。昨年はJR宮中取水ダムで736尾確認。約21`上流の西大滝ダム魚道では8尾の遡上。その原因を今回の調査で解明する。

写真・西大滝ダムから下流を見る

私の芸術祭「漆黒のカラスの羽の茶室」  8月14日号
 足を踏み入れると、いきなり黒い空間が目に飛び込み、ロビーに本来あるはずがない、茶室がある。「なんだこれは」。恐る恐る茶室に近づくと、屋根はカラスの羽、壁は土のこよりで作られている。古郡弘氏のアート「うたかたの歌垣」。松之山黒倉の「じょうもんの湯 おふくろ館」の女将、草村あや子さん(65)は「玄関に入って見てびっくり、じっと見るとよりすばらしい作品です」と来場者の反応を見て嬉しそうに笑う。

 平成4年オープンのおふくろ館。名前の通り、地元の母ちゃんたちの手作りごっつぉが名物。利用者は60代以上が多く、若者は少なかった。だがアートがあることでいっきに訪れる若者が増えた。勤務10年、女将歴3年目の草村さんは「これだけの人が来るのは想像以上。芸術の力を感じます。この流れを次に繋げたいですね」。作家の古郡氏とは3回会った。「最初は髪が長くていかにもアーティストな外見で驚きましたが、とてもきさくな方。開幕日は夫婦でそばを食べてくれました」。芸術祭期間中の土日は郷土料理バイキングを企画。煮物や漬物、和え物など地元産野菜ごっつぉが並ぶ。

 第1回大地の芸術祭から参加の古郡氏。第3回の「胞衣〜みしゃぐち」(十日町市願入)以来、9年振りの新作。総合ディレクターの北川フラム氏は話す。「実は09年に参加が決定したが拒否した。『あんたぐらいの作家ならもっと飛躍的なことをやったらどうか』と言った」と明かす。そして古郡氏はいつか使おうと20年間集め続けた漆黒のカラスの羽を屋根とし、6年間作品を創り続けた。「今回の芸術祭の頂点の作品のひとつだ」と北川氏は絶賛する。

 もうひとつ、新たな動きも。芸術祭を縁に建築士事務所「Sturdy Style」の塚本光輝氏らを中心とした地方創生プロジェクトが開始。同館の経営に参画し情報発信などに協力。会期中はスタッフ1人が住みこみで働く。里山の小さい宿の再生をめざす「都市と地域の交換」の実践の場だ。草村さんは話す。「高齢化が進む松之山ですが、みなさんの力をもらいながら頑張りますよ。まだまだこれからです」。

10代のまなざし「中島優香さん・14歳・津南中等校3年」  8月14日号
 丸い可愛い形に魅かれ取り組む「ホルン」。津南中等校吹奏楽部は今月5日、新潟市での県吹奏楽コンクールの高校生B部門に出場。だが、半分は中学生。この大会出場をめぐり今春から60人を超える部員で何度も話し合った。「結局、30人編成の高校B部に決まりましたが、部内でオーディションを行い、出場者を決めました」。高校生は学業で忙しいので、実質的な運営は中学3年生が主体。結果は金賞に3点足りない銀賞。「悔しいと思いましたが、嬉しかったです」。やり遂げた満足感。例年への課題も見つかり、「これからもホルンは続けます」。

 来月、オーストラリアから友だちがやって来る。中学1年の交換留学生で初の外国へ。その時の出会いが今に続く。「普段はメールで連絡し合っています。また会えます」。日常会話は大丈夫。今年6月の英語検定で2級に合格。来年度の交換留学で再びオーストラリアへのチャンスに挑む。「ほかの外国語にも関心があります。ドイツ語やスペイン語などです。言葉を知ることで、その国の人の生活や文化も知ることができますから」。一方で理数系が好きな『理系女子」。「両親の影響かもしれませんね」。
 この夏は忙しい。大地の芸術祭の後半、来月5、6日、大倉スノーシェッドで『指輪ホテル』が公演する。津南中等生11人が共演、そのひとり。「楽しみです」、また世界が広がる。
               (恩田昌美)

語り継がねば「藤ノ木歌子さん・津南町」  8月14日号
 「この人も…」。むらじゅうの人が出て、神社で出征を見送った。覚悟の出征とはいえ、この人の親はきっと胸が張り裂けそうだろう、そんな思いを感じた。70年余が経つが藤ノ木歌子さん(87)は、あの時の光景をいまも覚えている。
 その人が、自分の夫になるとは、想像すらできなかった。

 高等科を卒業し、家の手伝いをしている頃、旧秋成村の役場勤めを進められ助手として入った。担当は『兵事係』。召集令状を届ける業務も担当。「私は届けることはなかったですが、配達の人は夜、夜中関係なく真冬でも配達に行きました」。4人姉妹の長女。男手は父だけ、冬は家を守るため居なければならず、「父は苦労したと思います」。

 その人は海軍に志願。昭和18年12月。神社にみんなが集まり、『愛国婦人会だったと思うが、勝てくるぞと勇ましく…』をみんなで歌った。最後に、あの人が挨拶した。何を話したかなー、もう忘れたね」。
 毎月のように出征兵士を送り出す戦局だった。「この人も、帰ってこないのかな…」。16歳の目に映った光景だった。
 その人、藤ノ木義家さんは航空隊に入り、特別攻撃隊(特攻隊)として鹿児島・知覧からの出撃日程が決まっていたが、熱病にかかり、除隊させられ、札幌航空隊で終戦をむかえた、そんな経過を聞いたのは、結婚後だった。『わが人生』を記すため何冊も資料集を作り、書き始めていたが、4年前の2月3日、わが人生を閉じた。

 あの日、8月15日の玉音放送は役場で聞いた。「ガー、ガーで何も聞こえなかったが、誰かが『日本は負けた。戦争は終わった』と言ったのを覚えている」。その時、噂が広まった。『マッカーサーが来て、皆殺される。大事なものが見つかると殺される』。人から人へと広がった。「みんな燃やしたんです。卒業証書まで燃やしてしまったんです。馬鹿みたいですね」。

 その人、義家さんはその年の9月に帰ってきた。冬場、ワラ仕事で近所の若い衆が集まった。「そうだね、なんとなく皆が集まっていたかな」。20歳前後の若者たち。「なんとなく、でしたね」。翌年春2月、義家さんと結婚。義家さん21歳、歌子さん19歳。
 「これも運なんだね。あの熱病がなければ、この人は帰らぬ人でした。むらから出征し、亡くなった人もいます。もうこんなことはあってはならないです」。
 義家さんと2回、知覧を訪ねている。同期会「三八期会(みやぎ会)」は夫が亡くなるまで30回開いた。知覧での夫の姿が印象深い。「隊長は出撃し帰らぬ人に。知覧の記念館に遺影があります。その前でうちの人は…」。
 運命を分けた戦争が、ここにもある。
                 (恩田昌美)
  

キラリ看板娘「佐藤沙矢香さん・上越舗道)  8月14日号
 笑顔で迎える紅一点。今年1月から勤めている。「今まで女性ばかりの所に勤めていたので、最初は戸惑いました」。事務の仕事にもようやく慣れてきた。上司から言われた「事務は細かな作業だけど、ていねいに」の言葉を大事にしている。
 温泉好き。母と一緒にキナーレや千年の湯、ミオンなかさとなどに足を運ぶ。「週1回ほどのペースで回っています。のんびりゆったり、温泉はいいですね」。
 先日、津南・沖ノ原のひまわり畑に行ってきた。「初めてだったんです。とても暑かったけど、暑さを吹き飛ばすほど感動しました。これからは大地の芸術祭の作品巡りをしていきたいです」。
 海外に住んでみたいという夢がある。「どの国?かっこいい男の人がいっぱいいる所がいい」。    天秤座、20歳。

ああ夫婦「橋野功さん、真佐子さん」  8月14日号
 「なんでも、自分でやらないと気が済まない、納得しない人なんです」。来年結婚50年を迎える橋野功さん(75)、真佐子さん(69)。「仕事熱心の人です。私は仕事にはいっさい口出しはしません」。新潟県内で先駆け的に取り組んだ『錦鯉養魚』は、功さん28歳の時に始めた。結婚2年が過ぎた頃。「私はついてきただけです」と真佐子さん。

 農業経験はなかった真佐子さんは、家業の養豚や米作りを手伝う。「あの頃、勤め人だったので安心していたんですが…」。28歳の時に一大決断、養魚業を始める。「近所の長老さんから、功は気が狂ったぞ、と言われましたね」。
 「二つとして同じ模様はない。その魅力かな。勤め人に自分は向いていないと感じていた」。結婚を機に責任感も増し、事業を起こすことを決意。山古志、小千谷が知られるが、養魚を本格的に取り組むのは、県内でも数少なくなっている。 
 この時期、稚魚選別の日々。「朝から夕方まで3万尾ほど選別したかな」。世界的に錦鯉人気が高まっている。『唯一無二』の存在、その自然が作り出す逸品に魅かれる。

 仕事柄、県内外から来客がある。「私は商売にはいっさい口は出しません。でも、来られるお客様の接待は、私の役目です」。その季節季節の旬の野菜などを使い、漬物などちょっとした手作り品を作りもてなす。「料理は上手だな。旨いよ」。真佐子さんの創意工夫に感心する功さん。
 「でも、この人は毒舌家なんです。裏表のない人で、それだけに言葉は時には厳しいですよ」。それは仕事への取り組み姿勢に通じる。「言わなきゃよかった、なんて思うこともあるんさ」。しっかり分かっている功さん。

 内孫3人、外孫1人。「孫に小遣いをあげるのは、惜しいと思わないね。可愛いもんだよ」。今秋末娘が結婚する。「やっと、親として肩の荷が下りますね」。
 心臓に持病を持つ真佐子さん。「朝、起きるのが遅いと、オイッと見に来るんです。心配してくれているんですね」。真佐子さんは飲まないが、近くの飲み屋に行く時は一緒だ。「まぁ、一緒に行かないと、どうしたんだ、と聞かれるからなぁ」。
 「来年で50年、早いねぇ」。うなずく功さん。隣りで微笑む真佐子さん。

葉月の表情「100`に挑戦する子どもたち」  8月14日号
 ○…「イーチニ、イチニ」と声をかけあい山笠姿の子どもたちが、強い陽射しのなか妻有路を歩く。Tシャツも汗だくだ。「越後つまり100`徒歩の旅」(澤野崇団長)は7日スタート。キナーレを発着点に津南や中里、川西地区をぐるっと巡り、夜は学校に泊まる4泊5日の旅。小学4〜6年生17人が今回の過酷な旅に挑戦。初参加の西小5年の熊木なみきさんは「辛いけど、みんなで歌ったりしながら歩くと元気が出ます」とまっすぐ歩む道を見すえていた。

 ○…「子どもたちに生きる力を」と始まり7年目。かつて参加した小学生が成長し、ボランティアスタッフを務めるケースも増えて来た。小学時代2年連続で挑戦した十日町高2年の福島治樹さんは、今回ボラスタッフで初参加。「辛いけど仲間がいるから歩ける。自分を成長させてくれた旅です。今度はその楽しさ、協力する大切さを下の世代に伝えたい」と子どもたちと共に5日間の熱い旅を満喫していた。

栄と栄、演劇公演で深まる絆  8月14日号
 ◎…友好交流20年余の栄村と横浜市栄区。4年前の震災時、栄区から多くの支援活動があり、子どもたちに夢をと栄区の劇団グループも支援活動に乗り出し、被災直後の混乱期を避け、このたび栄村での公演が実現した。同村の「野々海の龍神伝説」をモチーフにリメイクした作品『風わたる』を9日、栄村文化会館ホールで村民も出演し、90分の作品を熱演。会場いっぱいの観衆から大きな拍手が贈られ、交流の絆がさらに深まった。劇団を招いた「栄村みちばた芸文協」では「素晴らしい公演ができた。この感動を交流の充実につなげたい」としている。

 ◎…公演したのは「劇団ぽかぽか」。栄区の子育て支援活動として20年前に活動をスタート。毎年オリジナル作品を同区内で上演。劇団四季の演出家などの協力を受け、毎年完成度の高い作品を公演している。今回は9年前、栄村との交流10周年記念の作品に「野々海の龍神伝説」などを取り入れ、リメイクした作品。小学生から70代まで30人の出演者、公演スタッフを含む65人が栄村公演に参加。セリフと歌が効果的に織りなす作品で、客席まで使った演出はホール全体が一体となる感動の舞台となった。公演後のステージで脚本の小暮寿子さんは、「もう感動で言葉が出ません。栄村の象徴でもある鳥甲山もステージに作ることができました。皆さんの温かい思いがひしひしと伝わりました」と挨拶。  

 ◎…出演者全員が会場出口で見送り、来場と抱き合ったり握手するなど交流をさらに深めた。村内中条の女性は「素晴らしかった。栄区の皆さんの思いを感じたし、これでまた交流が深まると思います」と公演に感謝していた。

全中出場、澤瀉士以選手(吉田中学3年)、決勝視野に  8月14日号
 今シーズン、急成長した。北海道札幌市で18、19日に開かれる全国中学校体育大会・陸上男子3千bに出場する澤潟士以(おもだか・しい)選手(吉田中3年)の夏が来た。澤潟選手は「何としても決勝に残りたい」と意欲を見せる。齋木勝紀監督も「今年に入ってぐんぐん伸びている。最高のレースができれば入賞も不可能ではない」と期待を寄せる。今後、中学駅伝とクロカンスキーでも全国をめざす澤潟選手、先ずは陸上で大きなステップにするつもりだ。

 3人兄弟の末っ子。小学4年から特設スキークラブに取り組んでいたことから、中学で陸上とスキーを選んだ。1500bと3千bに取り組み、1年の時に通信陸上県大会1500bで5位、2年では県大会3千bで6位だった。今シーズンは1500b、3千bともに県3位。通信陸上県大会3千bで標準記録を突破、全中出場を決めた。自己ベストはその時にマークした8分50秒。
 「全国のトップは8分25秒前後。トップ勢についていき、2千b以降が勝負」と話す。大会ごとに記録を伸ばし、齋木監督も「一気に伸びてきた。粘り強くなっており、期待できる。頑張ってほしい」とエールを送る。
 妻有勢では2年前、全国大会男子1500bで中里中3年の富井寿大選手が優勝しており、「再び上位に」と期待が高まっている。

私の芸術祭「青の祭典、若者に国境はない」  8月7日号
 今年4月25日、マグニチュード7・8の大地震に襲われたネパール。「なんとしても、大地の芸術祭に呼びたい」。2009年、2012年、今回と3回連続で芸術祭に参加するアーティスト・川端美和子氏は、地震発生直後、夏の本番に向け準備を進める松之山の人たちや1年前に立ち上げた地元の『高校生実行委員会』のメンバーに、思いを伝えた。
 
 7月31日、成田空港。「無事、ネパール団、到着です」。松之山の関係者にメールが入った。川端さんからだ。大地の芸術祭の川端作品は『青の祭典』。2日、まつだい能舞台でネパール、沖縄・八重山、十日町地域の若者が演じる。『青の祭典』。川端氏は構想段階からタイトルは決めていた。
 「ネパールのヒマラヤの空の青、沖縄の海の青、新潟の青い山並み、そして青春の青、まさに青の祭典なんです」
 高校生実行委員会とは月に一度、沖縄から駆けつけ会合を重ねた。大事にしたのは高校生らの思い、気持ちだった。
 『いま、何を考えている。いま自分たちの生活をどう考えている。沖縄の同じ世代の子たちも考えている。そしてネパールの同じ世代の若者たちも考えている。言葉、地域は離れているが、一緒に思いを共有しよう』

 2日、まつだい農舞台。2百人余の観客で埋まった。棚田が背景のステージ。青、赤の原色衣装でネパールの民族舞踊を舞う13歳、14歳。これを受け、松之山湯山神楽を演じた高澤雄大さん(17)は高校生実行委員会のリーダー。川端氏とは2009年展で出逢う。小学生だった。合唱の熱血指導に魅かれた。「言葉の壁は感じない。やはり同じ世代、思いは共有できた。これを次につながるよう交流を続けたい」。確かな実感を感じている。
 実行委員会を共に引っ張ったのが太鼓グループ「うらだ屋」の久保田大地さん(17)。12人のリーダーだ。勇壮な太鼓演奏に大きな拍手が送られた。高校生実行委は、同世代の遠征費支援のための募金活動をした。「最高の出会いになりました。言葉は違っても思いは共有できました。沖縄、ネパールへの思いがさらに強くなりました」。 

 八重山農林高校は、全国総合文化祭に出場する実力校。今回も全国大会出場後、そのまま妻有に駆け付けた。1年から3年の25人の郷土芸能部。演じるは『コイナ山ゆらば』。神から授けられた米作りを歌い、踊る。2年の加屋本真士さん(17)は「同じ世代だから通じるものがあります。初めての地ですが、このステージを一緒に作り上げた仲間がいること、とても誇りに思います。自分の自信にもつながります」。1年の篠田楓さん、星美咲さんも「こうして同世代の人たちの交流できたことは、とても思い出深いことです。交流を続けたいです」。

 大震災の被災跡がまだ残るネパールから8歳から14歳の12人が来た。ネパール・ギャラクシー校のスリナ・スナエニ・グルング副校長は話す。「とても感動的な出会いのステージです。ネパールは大きな地震にあったが、今日の交流ステージが実現し本当に良かった。学生たちには生涯の思い出になったでしょう。越後妻有とネパールは似ています。山に囲まれ、棚田もあります。今回の交流を次の交流につなげたい」と受入れに協力した関係者に感謝していた。
 ステージ最後は、川端さんの知人作曲の『空高く』、さらに参加者全員で『ふるさと』の大合唱。「ひとつになれたと思います。若者たちに、国境はありません」。
                    (恩田昌美)

語り継がねば「大沢巳作さん、志願し海軍へ、あわや海の底に」  8月㏦号
 海軍は志願だった。高等科2年の時。「どうせ徴用に出されるんなら、志願した方がいい」。大沢巳作さん(87)は、15歳で入隊した。
なぜ、海軍。「俺は扁平足なんだ。だから走ることや長く歩くのは駄目。ろくに泳げもしないのに、よく行ったと思う」。

 小学時代。水泳は近くの信濃川だった。「あの頃は、親の許可がないと行けない。うちの親は危ないからと許可を出さなかった」。その後、学校にプールが完成。「あれは小学6年の時だったな。海軍上がりの先生が来て、泳げない俺を、プールの一番深い所に放り投げるんだ。溺れる寸前で助ける、こんな繰り返しで、なんとか少し泳げるようになったが…」。

 山口県の海軍潜水学校に配属。潜水艦だ。訓練で何度も潜水艦に乗船したが、戦局が悪化するなか配属されたのが『特殊潜航艇』の水雷課。水雷とは『魚雷』のこと。
 真珠湾攻撃で使われた特殊潜航艇は2人乗り。水雷課に配属された頃、真珠湾攻撃の話を聞いた。2人乗り特殊潜航艇5隻が出撃。全隻が撃破されたが、奇跡的に1人の生存者がいた。「爆風で飛ばされ、そのまま気絶し捕虜になった。開戦後最初の捕虜だったようだ。まさに九死に一生を得た、だな」。
 配属された特殊潜航艇の水雷課。基地は姫路・播磨造船所。甲・乙・丙・丁と新型が作られた。真珠湾攻撃は甲型。大沢さんが乗船したのは最新式「丁型」、5人乗り。2基の魚雷を装備。敵艦に魚雷を発射後、すぐに引き返す潜航艇。瀬戸内海で訓練し、日本近海に出撃した。

 ある日、艇長から言われた。「大沢、テストパイロットをやれ」。開発する特殊潜航艇のテスト乗員だ。瀬戸内海の一番深い場所で、開発した潜航艇を水圧耐圧テストする。特殊潜航艇の両端をロープで吊り、そのまま海深く沈める。水圧により内部機器に異常がないか調べる。そのテストパイロットだ。
 「もう怖くてビクビクだ。嫌だとは逆らえない。やるしかない。片方のロープが外れたら、そのまま海の底だ。とにかくおっかなかったな」。
 さらにある日。再び艇長に言われた。「今度、新潟に行ってもらうぞ」。自分の出身地だと喜び、言われる任務を遂行した。だが、そう言われてまもなく終戦。結局、新潟行きは実現しなかった。
 戦争終盤。海軍は『人間魚雷』を使った。「あれは、特別な場所で秘密に作っていた。瀬戸内海の小島で製造していた。島を回った時、あれに使った鉄屑が山のようにあったのを覚えている」。

 時々、テレビで山口や舞鶴、瀬戸内の景色が出る。「ビクッとする。あの頃の地を訪ねてみたい気もするが…」。1歳違いの弟は義勇軍に志願し、最初のソ連侵攻に遭い、その地で戦死している。
 「俺の兵籍番号は『舞志水19・・』だが、あとの数字が思い出せない。こんな話、もう話すことはないだろうなぁ」。
                (恩田昌美)

ああ夫婦「山田英治さん・ミツヰさ」  8月㏦号
 中津川・秋山郷秋成逆巻の渓流河畔にたたずむ若きふたり。「こんな時もあったんだねぇ」。山田ミツヰさんは懐かしそう。ちょっと照れながらも、うなずく英治さん。昭和35年の初夏。背後に見えるのは猿飛橋。結婚して2年、若き24歳の、あの日、あの時だ。

 親が従妹同士で、小さい頃からよく顔を合わせる仲だった。共に昭和10年3月生まれ。誕生日は2日違うだけ。英冶さんは秋山郷屋敷、ミツヰさんは逆巻生まれ。秋山郷に伝わる民衆芸能『のよさ』の太鼓。お盆や祭りなどの『太鼓たたき』の若衆は人気の的。「かっこよかったよ」、ミツヰさんは、英冶さんの太鼓打ち姿を見て、いつも思っていた。英冶さんの太鼓は、いまも続き、先日の津南まつり民謡流しでも、車に荷台で太鼓を打ち続けた。
 昭和20年代、秋山郷は発電所工事の最盛期。東京電力の仕事を受けた英冶さん。結婚前まで続け、地域の電気工事会社を経て、東京五輪の翌年独立。
 「仕事一筋の人です。本当に仕事人間ですね」。ミツヰさんは、長期の出張などには同行し、食事の世話をした。「いくら夫婦でも、言いたいことは言う。だから時には口喧嘩もする」と英冶さん。「そうだね、私が聞き役ですね」。そこは幼馴染み、ツー、カー、の仲でもある。

 夏祭りシーズン。祭り太鼓が響くと「血が騒ぐ」の通り、何か高揚感がある。「桜の木のバチが一番いい音が出る。子どもの頃から近所の祖父から教えられ、青年団になってから大バチをやるようになった」。その成長を、見てきたひとりがミツヰさんでもあった。「今年の津南まつり、ちょっと弱ったなぁと感じたね。もう歳だもんねぇ」。笑いながらミツヰさんが返す。

高原に「こうせつ」響く、清津サマーコンサート  8月㏦号
 ◎…清津高原のゲレンデをステージに1日開いたサマーコンサート「南こうせつwithフレンズ」は県内外から1800人が集い、60年代フォークから最近の楽曲など2時間半に渡りライブ。3日前からテント泊で順番待ちした熱烈ファンなど、40代から60代が多数参加。アンコールではこうせつさんがステージを下り、客席で熱唱しファンが殺到するハプニングもあり、涼風の高原での150分は、「こうせつ一色」となった。

 ◎…「もう、感激です。私の大好きな『妹よ』と『夢ひと夜』が聞かれ、もう最高です」。40年来のこうせつファンの大津こずえさん(60)は満足顔だった。注目の『神田川』は後半の1曲目だった。こうせつさんが「そこの赤いタオルを頭に巻いている人。赤い手ぬぐいじゃないんだね」と冗談を飛ばす。会場最前列には『こうせつ』のバックプリントの揃いの淡緑Tシャツの14人グループ。こうせつさんのコンサートでいつも集まっているという。「現地集合です。今日は埼玉、東京、千葉、富山から来ています。このTシャツは昨年の神戸サマーピクニックコンサートの時に作ったものです」とリーダーで新潟市から来た大倉英夫さん(57)は3日前からテント泊。同メンバーの中村直美さん(58)は、娘に「南美(みなみ)」と付けるほどのこうせつファン。「いま野外コンサートが少なくなっていて、ここはぜひ定番、毎年の恒例にしてほしい。ロケーションが最高だし、雰囲気もいいです。こうせつファンが全国から来ますよ。2千人は集まるでしょう」と話している。なお会場のステージ前のS席7ブロック(900席)は地元分は30分で売切れる人気だった。


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