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2010年12月の津南新聞「トピックス」

過去の津南新聞トピックス
NGP津南支援基金、3jヶ月で全額取り崩し  12月24日号
 ニュー・グリーンピア津南(NGP津南)の経営支援を目的に創設した「NGP津南運営支援基金」を津南町は24日の臨時議会で全額取り崩し、同額を同津南へ補助金交付する議案を提案する。町は交付にあたり「使途は修繕費に限る」、「来年3月期で累積欠損を5千万円軽減する」の2条件を付ける。だが議員からは「使途が不明確」や「経営不安がないなら町負債に充てるべきだ」など問題視する声もあるが、賛成多数で原案可決する見通しだ。
 

 同基金は、NGP津南を経営する津南高原開発の初代社長・久保善治氏が今年1月死去し、相続人が個人遺産を津南町に寄付。その財源で津南町は上村町長誕生後の7月議会で同基金を創設。NGP津南の経営支援に役立てる方針でいた。
 
 だが、この基金創設の7月議会でも論議されたが、久保氏の遺産をそのまま津南高原開発に寄付した場合、贈与税が掛り、多額の納税を強いられるため、津南町に寄付し、町を通じてNGP津南の経営支援に役立てようと基金創設した。7月議会では議員から「それは贈与税逃れではないのか。町がそれに加担するようなことはすべきではない」と意見が出たが、賛成多数で基金創設が決まった。
 
 今回、町は基金を全額取り崩し、補助金として津南高原開発(松崎和秋社長)に交付する提案だ。21日には同社の松崎社長、樋口専務らが議会全員協議会に出席し、会社の試算表や前期決算書などを資料に現状を説明した。関係者の話しによると、NGP津南側からは「経営は困難な状況にはない」など、早急に資金が必要という説明はなかったという。このため議員からは、久保氏から寄贈された中にある貸付金約1・1億円(債権者・津南町)への返済に充てるべきだなどの意見も出た。
 
 全協終了後、取材に答えた松崎社長は「運転資金はある。交付を受ける補助金は、経営改善の安定化に活用したい」と、NGP津南の経営は順調と説明した。

    ▽▼▽
 
 今回の一連の問題は、久保氏の個人資産を、「贈与税逃れ」のために津南町に寄付したことから始まる。久保氏の個人資産は現金約8千7百万円、個人貸付約1・1億円が町に寄贈された。そのままNGP津南を経営する津南高原開発に寄贈した場合、贈与税がかかる。そのため、税金がかからない津南町に寄付し、町からNGP津南へ交付する処理を行った。
 
 個人資産が、町に寄付したことで「公金」となってしまった。さらに条例を伴う基金造成をしたため、基金を活用するには議会議決が必要となり、今回のような問題が発生する。個人資産が「公金」に姿を変えたため、ストレートに経営資金として活用できなくなったというのが実情だ。
 

 一方で12月町議会でNGP津南の直売所、舞台などすでに終了した事業への補正予算を一度、予算書に明記しながら、予算化を取りやめるなど、基金活用をめぐり町議会は振り回された。議員のひとりは「そもそも、個人資産の贈与税逃れの片棒を津南町が担いだことになる。こんなことがあってはならない。8千7百万円を分割寄付する方法もあったし、しっかり納税する方法もあった。税金で運営されている公的な自治体がやるべきことではない」と厳しく指摘している。
 

日本橋に雪国ワールド出現、NPO豪雪共和国が  12月24日号
 ◎…文化遺産にもなっている東京・日本橋「高島屋」の屋上に雪広場やかまくらが登場し、子どもたちは大はしゃぎで遊んだ。NPO雪の都GO雪共和国(相澤博文大統領)が18、19日、津南から雪を運び、高島屋の屋上で「東京のど真ん中で雪遊び」を行った。両日で5百人を上回る家族ずれなどで賑わい、NHKや時事通信などで歳末風景として紹介され、話題を呼んだ。
 

 ◎…同共和国は当日早朝、前日に降ったばかりの新雪約8dを高速で運搬。荷揚げ専用エレベーターで9階の屋上へ。子どもが6人ほど入れるかまくらや雪すべり台、雪広場などを作った。会場では餅つき、特製味噌汁サービスなどを行い、大好評だった。同共和国では「津南や栄村をアピールすることができた。雪はやはり魅力的な『商品』ですね」と今後も東京での雪イベントを計画する方針だ。

白鳥が津南に、中子の池に4羽   12月24日号 
 ◇…「おー、でかくて白い。すごいね」。湖面に浮かぶ幻想的な春の桜の名所、津南町中子の池に20日夕方、4羽の白鳥が飛来。真っ白な優雅な姿を湖面に見せていた。
 

 ◇…同池では4年余前にも白鳥が飛来、この時はすぐ飛び去った。池のほとりに住む山本光夫さん(80)が20日夕方、自宅から池をのぞくと見慣れない大きな白い鳥が群れをなしていた。「最初はなんだろうと思った。白鳥を間近で見たのは初めて。雪が少なく、池にはオイカワなど繁殖しエサが豊富なので羽休めに来たのかも」と驚く。この白鳥、21日夕に飛び去った。

r連載「川辺のアルバムD」 心象を映す冬の川、あの思い出が  小林孝一さん  12月17日号
 商店街の老舗菓子店・好月に、一枚の絵が掲げられている。冬の信濃川。淡いモノトーンの雪景色。その絵からは「しーん」という言葉が浮かぶ。川面の流れが止まったような、蛇行する川を雪化粧の川岸が描く。国道117号と飯山線越後田中駅を結ぶ道路に架かる田中橋から見た風景。時間が止まった冬の信濃川。

 
 26歳の時。2度目の十日町市展洋画部門に出品した小林幸一(52)。いきなりトップの市展賞に選ばれた。タイトルは『川の淵』、50号の大作。信濃川に最後まで架かっていた吊り橋、田中橋から上流を見た雪景色。三日月型の流れ、それを囲む雪、雪、雪。遠景に杉木立。時間がぴたっと止まった冬のある日が、そこにある。

 「しっとりしたものが好きで、時間が止まったような冬の雪景色が好き」。しんしんと降る雪。「しーん」と音を吸い取るような冬。その静止風景に魅せられる。
 
 その前年、東京から帰った。高校時代から選択科目は美術。東京時代、絵画教室にも通う。「自分の性格に合っているのが雪景色かな」。その年、十日町市展に初出品。佳作賞に入った。翌年、市展賞。モノトーンが自分の画風になった。

 
 信濃川まで数分。増水すると、川の中を大きな石がぶつかり合いながら転がる音が自宅で聞こえる。「不気味な音。子ども頃は怖かった」。川に架かる信濃川橋が揺れた。
 
 川は最高の遊び場だった。「信濃川唯一の滝」といわれた『岨滝(そたき)』直下のたまりが、その場所。「川に流れ着いた流木と縄と釘を持って行き、そこで筏(いかだ)を作って、対岸まで乗って行く遊びをよくした。時にはおぼれそうになったこともあった」。先輩から後輩へ、遊びは受け継がれたが、川遊びが禁止され、子たちは川から離された。
 
 「信濃川橋が吊り橋だった頃、橋から川を見ると、ハヨ(ウグイ)が渦を巻いていっぱいいた。増水の時は、みんなで川岸へ行き、石の下に手を突っ込むと面白いように魚が取れた。いま、そんなこと全く出来なくなっている。あの面白さを知らない今の子たちは、可愛そうだ」。
 
 昨年からラフティング活動にも関わる。岨滝に大きなテトラポットが埋められていた。「最高のスポットと思うが、残念だ。鈴木牧之の本に出てくる場所でもあり、それだけでもドラマがある」。国道沿いの大割野商店街の随所にある写真パネル。小林幸一のアイデアから始まった。駅通りとの交差点にあるラフティング写真が目を引く。

 
 子どもの頃の信濃川。その思い出の風景は、今はない。故郷に帰り、描いた川の雪景色。変わり果てた信濃川への惜別感が、そこに感じられる。「しーんと静まり返った一枚の雪景色。小林幸一の思いを、強く物語っている。

写真・「今日は水が多いな」と小林幸一さん。夏場はラフテイングを行う(12月15日、信濃川橋で)

「さよならじゃないよ」、津南町ことばのキャッチボール・山下先生退任  12月17日号
 中国、タイ、フィリピン、韓国などのお国自慢料理がテーブルに並んだ。いつもの年の瀬の恒例行事。津南町公民館の「ことばのキャッチボール」忘年会。でも、なんだか雰囲気が違う、と津南中等校5学年の長男を持つマリリンさんは感じた。
 

 「みなさん、しおどき、という言葉が日本にはあります。20年間、皆さんと楽しい時間を過ごしてきましたが、私はもう年です。この12月末で、私の役目を終わりにしようと思います」。日本語の先生で、親代わりで、なんでも相談できる山下克利先生の言葉を、みんながきょとんとして聞いたが、じわーっと涙が流れてきた。
 
 何も身寄りもなく、日本語もほとんど分からず、結婚で津南の住人になり、二人目の子を生み、初めてキャッチボールの存在を知った韓国からの由来さん。「まだ元気なのに。ずっとくればいいのに…」、それだけ言うと、涙があふれ、とまらなくなった。
 
 なんでも話せた、なんでも相談できた。子のこと、
夫のこと、姑のこと、学校のこと…。とても人には言えないことでも、「山下先生だから話せたんだよ」。また涙があふれた。
 

 じーと聞いていた山下先生。こらえられなくなった。メガネ越しの目は、涙であふれた。「だから今日は、…」言葉が続かない。
 「辛い時の涙は、赤い色をしている。血涙(けつるい)という。涙を流したあとは、さわやかである。私の頬っぺたにも涙が流れた。この20年間、私が教えたのではなく、私の方が教えられた。これは私、山下の財産です」。

▽▽▽

 「荒れる中学校」が各地に見られ、津南中学も例外ではなかった。校長で赴任した山下さん。いつも運動靴。徹底的に生徒と向き合った。問題を起こした子が入れられた鑑別所にも行った。「私の大事な生徒だ。早く返してほしい」。同所の職員が驚いた。この言葉が、子たちの心に染み込んだ。


 津南町教育委員長時代。結婚で外国から移住する女性たちが増えた。「言葉が分からない」、「姑とうまくいかない」など、ぽつぽつと相談が持ち込まれた。マリリンさんもその頃、相談に訪れた。そして県内の先駆けとなる「ことばのキャッチボール」が誕生。20年前のこと。町内はじめ十日町、中里、川西、松之山、塩沢、栄村、遠くは守門村からも女性たちが集まり、毎週顔を合わせた。
 
 いつしか「津南のお父さん」と呼ばれ、女性たちに子が誕生し始めると「津南のおじいちゃん」になった。言葉にできない悩みを抱え、山下さんの顔を見るなり泣き崩れた女性も。母国の中国へ帰ると決めて、最後に山下さんと会い、中国行きをやめた女性。その時、その時は涙、涙、涙だった。
 

 毎週水曜と木曜。自宅の小千谷から通った。時には相談が長引き、津南に泊まることも。夜中に自宅の電話が鳴ることもたびたび。「私は、津南が好きだから。皆さんが好きだから。続けられたんですよ」。
 
 テーブルに並ぶお国自慢の手作り料理。思いが、その一品一品に込められている。「先生、さよならじゃないよ。いつでも、先生は私たちのそばにいてくれるよ。先生の言葉は忘れないよ」。
 
 来春、これまでキャッチボールに参加した百人余に呼びかけ、「山下先生に感謝する集い」を開く事になった。「先生、こればかりは私たちの言う事を聞いてね」。
照れ笑いの山下先生、また目が潤んだ。

西大滝ダム水利権更新で中魚漁協が東京電力に要望書  12月17日号
 今月末で水利権が切れる飯山市の東京電力・西大滝ダム(信濃川発電所=津南町三箇)の水利権更新に関係し14日、下流域で漁業権を持つ中魚沼漁協は、信濃川中流域水環境検討協議会の提言が求めた「関係者による検討、取り組みを、なぜ無視したのか」、「申請流量毎秒20dの根拠は」など4項目の要望を東京電力に提出し、回答を求めた。東京電力は「地元の皆さんと意見交換でき、貴重なご意見を伺いました。今後の生かしいきたい。要望書は今後社内で検討します」としている。
 

 中魚漁協・長谷川克一組合長ら6人が小千谷市の東電・電力所を訪問。4項目は「関係者による検討。取り組みを何故無視したのか」、「申請維持流量毎秒20dの根拠」、「5年間の試験放流を」、「必要に応じ自主増放流を行う」。高橋誠一所長が要望書を受け取った。懇談では長谷川組合長が要望4項目に添って、さらに詳しく要望。これに対し東電は、「関係団体、関係自治体には説明済み」、「毎秒20dは当社想定の7倍の流量」など、これまでの説明を繰り返したという。長谷川組合長は「更新申請が受理されれば、許可が下りなくても、これまで通り取水できるため、東京電力の姿勢は、余りにも地元無視の強硬姿勢だ。環境を社の理念に掲げる会社として、大きな疑問を感じる」と不信感を募らせている。
 

 さらに中魚漁協は同日、長岡市にある国土交通省北陸地方整備局・信濃川河川事務所を訪ね、行政相談の形で「更新後5年間、調査検証を行う、地元河川所長の判断で期間内でも水量変更を行う、10年目の報告は第三者を含めた中立機関で検証する」など3項目を要望した。

ようやく雪が、平地に初雪、川西ダムで55aも  12月17日号
 ◎…一夜にして雪景色になった。15日から今冬一番の強い冬型になり、同日午後には積雪を記録し、今冬の初雪を記録した。16日朝も津南町役場観測点で6a(昨年3a)、秋山郷・結東で5a(同7a)を記録した。今回の雪は「里雪型」で、十日町市では川西ダムで55a、真田(鉢)で40a、森林研究所(学校町)で28aなど局地的な積雪を記録している。
 

 ◎…例年より遅い初雪となり、車のタイヤ交換など冬準備がほぼ終わっている中での雪だったため、雪による事故などはなかった。
スキー場関係者は「もっと降れ」の大合唱。ニュー・グリーンピア津南と上越国際当間スキー場が18日、マウンテンパーク津南、松之山スキー場が23日、清津中里スキー場25日、松代ファミリースキー場26日など雪の状況にもよるがオープンする。

写真・12月16日朝、津南町陣場下で)
 

新しい年は新しい手作りしめ縄で  12月17日号 
 ○…手作りしめ縄で新年を迎えようと、恒例の津南町老人クラブ連合会主催の講習会は12日、大割野区民会館で開いた。講師は伝統の技を現代に継ぐ津南ワラ工芸部(高橋清作代表)。ベテランの妙技を30人余に手ほどき。「新年ぐらいは手作りで祝いたいね」。
 

 ○…講習会はワラ技術伝承をねらいに15年余続く。稲ワラの匂いに包まれた会場で参加者はしめ縄作りに集中。高橋代表(77、船山)は「みんなでワラ仕事をすると、人に比べて出来が悪いと悔しいから上達する。ワラの香りと出来栄えを年1回ぐらいは楽しんで欲しいね」。なお同部は冬季、そだき苑でワラ講習会を月2回余開く。問い合わせは同連合会(社協内)пi765)3774。

川辺のアルバムC 「信濃川発電所で変貌した嶋地区」
  川辺のアルバムC 発電所で変わった嶋地区 

  東京電力・信濃川発電所は昭和14年、発電開始。

  嶋地区は20戸前後を維持したが、今は14戸と過疎が進む。

  発電所を見下ろす位置にある恩田重信さんの家。

  自分も定年まで、ここで働いた。

  今は無人化になった発電所。「これほどの規模の発電所が
  無人化になるとは。あの頃から、ここは元気がなくなったな」

  写真・昭和12年の発電所建設時。川に沿うように大小100枚
  ほどの田んぼがあった。
 
   

川辺のアルバムC 「発電所で一変した嶋地区」  12月10日号
 信濃川と清津川がT字に交わる合流点周辺は、縄文草創期の遺跡群が点在する。約1万3千年前、川をへだて縄文人たちが暮らす生活の煙が立ち上っていた。

 その合流点の信濃川左岸。昭和14年稼動、かつて「東洋一」の枕詞で説明された東京電力・信濃川発電所がある。水力発電所では、今でも電源開発・佐久間発電所に次ぐ規模。年間累計発電量は国内トップ。その発電所の場所には、川が運ぶ肥沃な土壌の田んぼが大小100枚ほどあった。
 

 発電所建設で大きく変わった津南町鹿渡新田。かつて「嶋」と呼ばれた同地区。今も住民は、そう呼ぶ。
発電所を見下ろす高台にある恩田重信(85)の家。信濃川に沿うように田んぼが広がっていた。「嫁にやるなら嶋へやれ、と言われたほど豊かだった。嶋地区は昔から分家は出さないという規律があり、ずっと20戸前後だった。田や山の割り地など新しい分家に分ける余地がなかった。だから持ち田も広くあり、食糧には事欠かなかった」。今は14戸、高齢化の典型地区になった。

 
 発電所建設が始まった昭和10年頃、小学生だった重信は、建設工事を見るのが日課だった。当時22戸。集落の各戸が宿舎になり各所に飯場があった。ムラに大きな貨幣経済の波が押し寄せた。建設地にあったムラの半分が地区内移転を迫られた。 
山に張り付くように5本の太い鉄管が並び、河畔には箱方の発電所建物、幾何学的に組まれた送電鉄塔や配線ケーブル。「東洋一」と言われた当時、小学社会科の教科書にも載った。
 高等科の頃。重信には忘れられない光景がある。「発電所ができて西大滝ダムから通水し、川の余水路から水がゆっくり噴き出すと、そこにでっかいサケがいっぱい集まった。すごい数だったな」。発電所稼動後、今度は排水路に魚が集まった。幸豊かな川だった。
 
 東京電灯(東京電力の前身)養成所に入り兵役後、再び東京電力に。定年まで信濃川発電所で働いた重信。「嶋は発電所で一変した。確か22戸あったと思うが、うち10戸余りが発電所建設で動いた」。目を閉じると発電所建設前のムラの様子がよみがえる。「ムラの真ん中を善光寺街道が通っていた。その坂を下りると川に出て、船着場があり、対岸の干溝に渡った。昔はとにかく魚がいっぱいいた」。田の水を見に行くと、アユが川面を跳ねているのと何度も見たことがある。
 

 眼下に見える信濃川発電所はいまは無人。かつて24時間、3交代勤務で発電管理にあたった。「これだけの発電所が無人とは、ちょっと考えられない思いだ。当時、言われるままに無人化に賛成したが、いま思うと、それからムラに元気がなくなったように思うな」。


 発電所をまたぐように橋が架かる。人と人の和で架けられた当時の関係者の思いで名づけられた「人和橋」。ここからの眺めは、地元の人たちの散歩コースになっている。人の和でできた発電所。それを見下ろす人和橋で、重信は思う。

写真・信濃川発電所の5本の鉄管を見て、かつての嶋地区を思う恩田重信さん(85)=津南町鹿渡新田、2010年12月9日

津南町統合計画に待った、中津小校区が1105人署名で存続要望  12月10日号
 津南町が2年前に示した小中学校の統合・再編計画に対し、4年後の平成26年4月の統合方針が出されている中津小学校の校区民は6日、地元民1105人の署名を添え、上村町長に中津小存続を訴えた。上村町長は「子どもたちにとって何が一番良いかを考える事が大切。学校問題と地域問題を別に考える必要がある」と答え、具体的な方針には言及しなかった。
 

 中津小校区は昨年春、「中津地区の将来を地域全体で考えよう」とPTAや地域活動グループ代表など10人余で『中津小学校の将来を考える会』を作り、地域懇談や講演会アンケートなどを実施。昨年12月実施のアンケートで校区の思いが具体化した。校区全戸541世帯対象に、統合への賛否を聞いた。回答率57%。結果は統合に「反対58%」、「賛成30%」、無回答12%と、過半数が統合を疑問視。さらに小学生以下の子を持つ家庭では「反対68%」と高率を示した。
 
 これを受け同考える会では地域懇談、説明会などを経て「地域づくりに取り組むためにも中津小学校は必要で統合には反対」と方針を出し10月末から署名運動を展開。約1ヵ月間で1105人署名が集まった。
 

 この署名を持参し6日、同考える会は上村町長に「中津小学校の存続」、「人を増やす施策を」とする要望書を署名簿と共に提出。上村町長は「住んで良かったと思える町をめざし、その魅力で若者定着につながり、子たちも増える。そのためには地域参画が不可欠」と地域の強力を促した。
 

 この統合問題は8日の町議会でも取り上げられ、上村町長は「答申は最大限尊重されるべきもの。10年、15年後を見据えた取組みが必要。年間出生数は約60人。うち転勤族が約1割。今後50人を大きく越えない出生数を推移するだろう。子たちのことを最優先に津南町の教育の形を考えたい」と取組み方針を述べた。
 
 今回、要望書を提出した同考える会事務局の鈴木淳博さん(52)は「今回の活動は自分たちが暮らす地域を見直す機会になった。どう人を増やすか、中津地区の将来を考える事につながるはず」と活動の波及効果を期待する。同地区では35年以上の歴史がある独自の中津杯バレーボール大会、健康づくりで子どもから大人までが取り組みLDC(ロング・ディスタンス・クラブ)も25年以上続き、親睦と体力づくりの野球チームも30年以上の歴史があるなど、校区内で活発な活動が続いている。

 なお、中津小の児童推移は10年前には90人、5年前には64人、今期22年度は56人で、5年後には36人となる見込みだ。

雪国育ち津南桐、大海原へ、桐でサーフボードを  12月10日号
 雪国で育った銘木・津南桐が太平洋側でサーフボードに―。津南桐を素材にしたサーフボードが製品化され9日、津南町役場前で披露された。制作したノビーウッドサーフボード(千葉市美浜区)の大川信仁代表は「軽くて削りやすく、それでも材質がしっかりしており最適」と太鼓判。桐材を提供した津南町桐生産振興協議会の柳沢由定会長は「思わぬ所で注目され、ありがたい。これを機に津南桐の生産拡大、振興につなげていきたい」と期待している。
 

 津南桐は、雪国で育つがゆえに、締まった材質になるのが特徴。その材質のよさが製品化につながった。大川さんは「現代のサーフボードは石油で作られるプラスチック製。木製のボードは耐久性や環境に優しく、世界中で注目されている」と、8年前から桐材によるサーフボードの製造を手がけている。2年ほど前、インターネットで津南桐を知り昨年、実際に津南に足を運び、同協議会を通して材料を仕入れ、1年かけて乾燥、あく抜きなど行って製品化。サーフィンのメッカ、オーストラリアで実証試験も行い、プロサーファーらの信頼も得た。販売価格はロングが1枚30〜40万円程度で、今後は自社製品として販売を行うほか、材料としての販売、さらに製作指導なども行っていくとしており「津南の生産者と一緒になってやっていきたい」としている。
 

 現在、町内には5200本余りの桐が育成されているが、低価格の外国産に押され生産は低迷気味。柳沢会長は「お互いに長い付き合いを望んでいる。桐を通して山と海がつながった。地域の活性化に結びつけていきたい」と話している。

「津南町知ってますか」、外丸小5,6年生が新潟市で街頭アンケート  12月10日号
 ○…外丸っ子が新潟市で突撃取材―。「津南町の良さを調べよう」を総合学習のテーマに取り組んでいる外丸小(竹内直一校長、41人)の5・6年生13人が2日、町を飛び越え、高速の栄パーキングエリア(PA)、黒崎PA、さらに新潟駅前と万代シティでアンケート調査を実施した。初対面の通行人に「津南町を知っていますか」と積極的に声をかけ、150人余が回答。慣れない地での突撃インタビューを経験し、子どもたちは故郷への興味をさらに深めている。
 

 ○…地元住民への聞き取り調査、さらに津南病院や津南駅などにアンケート箱を置き津南の良さを下調べ、準備万端で新潟市に。回答ではひまわり広場、ニュー・グリーンピア津南を知っている人が想像以上に多かったという。6年の入沢友梨奈さんは「雪のイメージが強いと思っていたけど、新潟の人は夏とか秋の自然の豊かさが印象にあるみたいなので驚きました」。福原理歩さんは「最初は答えてくれない人が多くショックだったけど、協力してくれる人もいて嬉しかったです」。丸山智博君は「知らない人と話すのは緊張したけど、だんだんやり方がわかってきた。自分から話しかける大切さを知りました」。今回の街頭調査は子どもたちの意識を変えつつある。
 

 ○…故郷への想いを込め「みんな大好き津南町」というオリジナル曲も作った13人。担任・猪田謙教諭(41)は「都市部住民の生の声を聞くことで外から見た津南を肌で感じ、新たな視点が生まれる。また今は小人数クラスだが、中学で一気に人数が増える。大勢のなかで意見を出すにはコミュニケーション能力が重要。この経験は将来につながるはず」とねらいを話す。今後、町内突撃インタビューも計画しており、来年2月に研究発表する予定だ。

息ぴったり、リコーダーで全国出場、貝野小学校  12月10日号
 全校30人の小さな山あいの学校が、伝統の音色をつないだ―。第36回新潟県リコーダーコンテストが4日、長岡リリックホールで開かれ、小学生から社会人まで23団体280人余りが参加したなか、貝野小(大津政好校長)が合奏の部で金賞を獲得し24回目の全国大会出場を決めた。部長の井ノ川健右君(6年)は「とってもうれしい。全国でも最高の演奏で金賞を取りたい」と胸を膨らませている。
 

 同校のリコーダー部は、4年生以上17人全員が参加。「リコーダーの貝野小」として学校あげて取り組み、4年生以上は週3日、大会前は土曜日を含むほぼ毎日練習に励んできた。
 指導に当たっているのは、指揮者の小山ゆい教諭と菊地雅樹教頭。今回はテレビアニメで人気の梁邦彦作曲「組曲『英國戀物語エマ』より」を演奏。審査評では「響きはよく、すばらしい演奏」と高い評価を受けた反面、「音の乱れがあり、直してほしい」と全国に向けての課題点もあげられた。指揮担当の小山教諭は「ようやく演奏がまとまってきました。全国では表情豊かに演奏できれば」と期待。子どもたちは「気持ちを合わせ演奏したい」と張り切っている。全国大会は3月27日、東京都江戸川区で開かれる。
 
 なお、十日町地域の金賞受賞団体は次の通り。
 ▼小学校=馬場(4重奏、合奏)東(4重奏)貝野(合奏)▼中学校=十日町リコーダーアンサンブル(4重奏)▼一般=十日町リコーダーアンサンブル(合奏)

川辺のアルバムC  県境の橋、宮野原橋のたもとにあった「芳流閣」
川辺のアルバムC

   かつての宮野原橋のたもとに明治期に建設の
   宿屋「芳流閣」があった。

   田邉佑子さんは、語る。「春一番、雪が消えた宮野原橋は
   子どもたちの遊びだったんです」。

   明治期に建設の芳流閣。その雰囲気ある室内を
   下流約4百mに新築した芳流閣にそのまま移築した。

   写真・昭和58年、旧宮野原橋と新宮野原橋。新橋の対岸に
   芳流閣はあった。

川辺のアルバムB 宮野原橋の思い出、「芳流閣」の田邉佑子さん  12月3日号
 その橋を渡ると信州だった。千曲川が信濃川に名を変える国境(くにさかい)の橋、宮野原橋。そのたもとに旅館、芳流閣はあった。明治期、新潟県政初代議長で、上郷村出身の島田茂翁が始めた宿である。

 時代は終戦間近。田辺佑子(75)は、敗戦色が濃くなるなか、東京・大田区で暮していた。3月10日の東京大空襲後、毎日のように東京の空にB29が飛来した。5月過ぎ、空襲でわが家が焼失。洋(よう)、佑子の姉妹と身重の母・京は、祖母が旅館を営む旧上郷村に、家族で疎開してきた。小学3年だった。鉄骨の橋脚が印象深く残る宮野原橋のたもとだった。

 
 祖母から母へ、芳流閣の女将が代わり、子たちは格好のお手伝いさん。「嫌でしたね。高校時代、学校からの帰り、家の2階に電気がついていると、お客さんが来ているのが分かり、玄関を入るとすぐに手伝いを言いつかりましたね」。佑子は懐かしむ。その母は13年前、92歳で他界。姉妹で宿を切り盛りしてきた。その姉・洋は昨年9月、鬼籍に入った。

 
 国道117号の改良工事で宮野原橋の架け替えが決まった。昭和58年、明治に建てた芳流閣の建物に解体の重機が入った。「玄関と居間は移設しました。母はみんな壊してしまえと言っていましたが姉と相談し、そっくり移しました。いま見ても移してよかったと思います」。昭和60年、橋のたもとから下流へ4百bに新築。太い梁など明治の数寄屋造り日本家屋そのままの雰囲気が再現された。
 旧宮野原橋わきの宿時代は、川の流れがよく聞こえた。「初めてのお客さんは、昨夜はずっと雨だったね、なんて言うんですよ」。常連客は、いつしか川の流れが子守唄になった。

 
 鉄骨の宮野原橋で、忘れられない想い出がある。
「春一番に雪が消えるのが橋の上なんです。当時、まだめずらしい自転車を借りてきて皆で乗り回し、遊ぶのが楽しかったですね」。上郷中学校4期生の佑子たち。1学年170人もいた。春を待ちこがれ、雪が消えた橋の上での笑顔がよみがえってくる。
 信濃川が名を変える国境の地は、交通の要所でもあった。越後の街道がここから信州につながり、さらに群馬に抜ける街道が延びる三叉路の地に、芳流閣はあった。川運の時代、人の往来で賑わった。
 
 芳流閣の看板は5年前に下した。「招き猫」の役を果たした三毛のミミはもう20歳。茶トラの「アカベー」も15歳。若手がほかに3匹。「みんな放浪のはてに、ここに住み着きました」。かつてように川の音は聞こえないが、和の雰囲気あふれる居間で、佑子はアカベーの頭を撫でていた。

十日町と津南で企業誘致協議会、国の支援受け  12月3日号
 新たな企業誘致と既存企業サポートが目的の企業立地促進法活用の「十日町地域産業活性化協議会」が1日に設立した。初会合はクロス10で開き、経産省から出向の十日町市産業観光課の山岸航部長を会長に選び、同部長は「広域で基本計画を作り、国採択を受けると減税や低金利融資、補助が受けられる。ハード、ソフト共に活用でき、新たな企業誘致、既存企業の拡大を促すチャンス」と話す。同会は2月までに意見集約し、事業計画を国に申請する。
 

 同法は3年前に始まり、県内では9地域14市町が広域で取組む。十日町地域は10番目。原案では工業団地整備、中小企業の人材育成講習、産官学連携による新商品開発など計画。津南町では中小企業などが事業所内託児所を設ける場合に運営費補助など上げている。事業実施で5年後に十日町地域の総所得(現在約629億円)を約33億円増、伸び率5.2%の経営向上をめざす。構成は次の通り。
 

 ▼会長・山岸航▼副会長・石橋雅博(町地域振興課長)▼小林康昌(県産業立地課長)▼村山栄治(十日町商議所副頭取)▼押木篤美(市商工会連絡協議会長)▼関口芳央(十日町織協理事長)▼尾身賢二(グループ夢21会長)▼高橋政徳(津南町商工会長)▼久保田等(津南町異業種交流会長)

直売市「たっぴ市」がひと区切り、感謝のフィナーレ  12月3日号
 11年間ありがとう―。津南町の農産物直売市の先駆け「たっぴたっぴ市」が活動を終えた。27日、ふれあいセンターでの最終市。オープン前に百人余の長蛇の列。来場者に尾池三佐子会長が「11年間いろんな方に支えられました」と深々と頭を下げると大きな拍手が送られた。
 

 同市は平成12年、中心街空店舗活用をと地元農村アドバイザーら20人余で開始。「みんなにたびたび来てもらいたい」と願いを込め方言『たっぴたっぴ』(たびたび)を会の名称にし、6月から11月まで毎週土曜に定期市。安心な地元野菜をと生産者を明記したシールを商品に貼り、顔が見える販売を心がけた。価格、量、商品も自分で決め、さらに顧客要望に応え加工品を増やすなど積極展開。同市から卯ノ木「よらねぇかい」、中深見「ごっつぉ市」など新たな直売活動が広がり生産活動を促進させた。
 

 今回で区切りをつけるのは「他に直売所が増えました」。平日営業の直売所が増え週一回の同市は客足が減少。メンバーも平日営業の直売所出品に力を入れるようになった。初代会長で最後の会長も勤めた尾池さん(62、津原)は「たっぴ市を通し多くの直売所ができ先駆けの役割は終わったと思います。野菜をただ作るだけでなく直接消費者と触れあい、安全にこだわった商品は売れるという意識が津南で高まったと思います」と振り返る。
 

 最終市は会員23人が用意した野菜、加工品は開店1時間でほぼ完売。常連の桑原トシさん(84、船山)は「たくさんの野菜や加工品が並びいつも楽しみでした。なくなるのは寂しいですね」と惜しむ。メンバー最年長の大沢巳作さん(84、外丸)。30eの畑で作るニンジンや大根など出品。「名前を商品に貼るせいか直接電話が来て『野菜が欲しい』と要望があったりするのが嬉しかったな。他農家のやり方も学べ、良い野菜を作る励みだった」と感慨深そうに話した。11年間のたっぴ市が残した足跡は大きく、津南農業の方向性を示しているともいえる。

マリー、ありがとう 栄村北信小3年生がお別れ会  12月3日号
 ◎…「マリー、ありがとう」。栄村の北信小(鈴木久男校長・66人)で一緒に学校生活を送ったヤギのマリーが先月29日、子どもたちに送られ、学校を後にした。昨年から一緒だった3年生11人は、マリー専用の小屋を引きながら、千曲川を渡り、学校の対岸にある月岡地区の受入れ先へ一緒に行った。子どもたちは別れを惜しみ、「マリー、ありがとう」と何度も呼びかけ、涙のお別れ会となった。
 

 ◎…1年生から担任の斎藤充子先生は「命の誕生の感動を」と1年生の時は蚕の飼育、昨年ヤギ・マリーを学校生活の仲間に入れた。今春再び学校に来たマリーが妊娠。4月23日、感動の出産に子供たちは立ち会った。生まれた2頭に全校で「タリー」と「サリー」と名づけた。途中、九州の口蹄疫を心配し、2ヵ月間、地元の酪農家に預け、夏休み明けに再び学校へ。子どもたちはマリー家族用に校庭の一画に小屋を手づくり。毎日の飼育は3年生が班を組んであたった。
 

 ◎…大きく成長した2頭の子たちの引き受け先が決まり10月26日、須坂に旅立つ2頭を皆で送った。先月29日、いよいよマリーとのお別れ会。大好きなリンゴを与え、マリー専用の小屋を学校から押しながら、月岡の受入れ先へ一緒に行った。6月に3年生みんなでが作った「マリーの歌」を歌いながら。宮川凛さんは「毎日学校へ来るのが楽しかった。マリーがいなくなってさみしいです。でも時々、会いに来るからね」などとお別れし、13番まで作ったマリーの歌を大合唱し、マリーとの思い出に浸っていた。斎藤先生は「マリー家族を通じて子どもたちに、人を思う優しい気持ちと共に皆で力を合わせ協力する心が育まれました。協力いただいた久保田さんや保護者の皆さんに感謝します」と子どもたちと一緒にマリーに声をかけた。

光の道を歩こう、津南町なじょもんで企画  12月3日号
 ★…縄文のクリスマスロードを歩こう―。津南町なじょもん館の「クリスマス展」は4日から開く。同館のクマやキツネ、埴輪などがサンタクロースに変身。さらにLED約2千個で装飾したクリスマスロード10b余を館内に設置。白樺の光輝く道は縄文紋様を描いたガラスのキャンドルライトで彩り、雰囲気ある空間を演出。
 

 ★…注目企画は「かえっこプレゼント」。ロードの奥に縄文土器、ひょうたん、籠を置き、中にはクリスマスプレゼントが入っている。来館者がプレゼントを持参すると、その中身と交換できる仕組みだ。「何が入っているか誰にもわからない、常に『かえっこ』されるプレゼント。貴重なものもあるかもしれませんよ」。入館料5百円、会期は25日まで。なじょもんпi765)5511。


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